イエスキリスト—主であり、救い主そして私たちの兄—は私たちを抱きかかえ、涙を拭い、この世界で受けた傷を癒すためにすぐそこにいます。今日のお話でお伝えしたいことはこれです。キリストの弟子としての課された義務は彼の手となり、この業を実現することです。
ディボーショナルのお話ができる機会に深く感謝しています。デ・ヨング・ コンサートホールの舞台に立つのは少し緊張してしまいます。というのも、この舞台に上るのは、初めてではないのです。私は一度、ファラー・ジュニア・バンドのバリトンホルン奏者として演奏したのですが、私が演奏中にしたミスは、おそらく、この建物で行われた演奏史上最悪のミスと記録されているでしょう。その経験以来、私が今日の演説で変なミスをしないように戒めています。
私の幼少期の家は、ここプロボの9番東通り、かつてのヘリテージホールの反対側にありました。なので、BYUのキャンパスは少年時代の私にとって遊び場でした。ハリス美術館を含むこれらの建物の多くがまだ建設中でした。5歳くらいの頃に、この美術館の建設現場をぶらぶらと散策した思い出があります。美術館の建設現場に入ったワクワクする冒険の多くを忘れてしまいましたが、私より8歳半年上の兄タレスと一緒にいたことは、はっきりと覚えています。
私には兄弟が7人いまして、タレスが長男で、私は、7人兄弟の5番目です。タレスと私の間には3人の姉妹がいたので、両親はタレスが弟を持てて非常にうれしく思っている事を私に伝えてくれました。そして、彼が兄でいることに幸せを感じていることを確かに感じました。私が4歳の頃、タレスは、私を彼の友人たちと一緒に色んな冒険に連れて行ってくれました。この年上の男の子たちと一緒にいるときは、いつも誇らしく思っていました。私が自転車に乗ることを覚える前に、タレスはマーレーの自転車のクロスバーにタオルを巻きつけて、私をよく乗せてくれました。そして、プロボの街中を連れて回ってくれました。ヘルメットはもちろん被っていませんでした。丘陵地帯でトカゲを捕まえたりしましたし、 山の斜面にあるYサインへハイキングもしました、ロウリーズマーケットでペニーキャンディを買ったりもしましたし、BYUキャンパスの建設中の建物の中でかけっこしたりもしました。すべてが素晴らしい思い出です。これらの思い出を素敵なものにしてくれたのは、私の兄の存在と彼の優しさでした。
私が8歳か9歳のある晩のことです。私は、2階の子供部屋にある2段ベッドで寝ていました。鮮明には覚えてはいませんが、寝返りをして、二段ベッドの端から床に落ちたそうです。タレスは私の部屋のすぐ下の階の部屋にいて、デートから家に帰ってきたばかりでした。彼は物音を聞いた途端、2階へ急ぎ、私が床で泣いているのを見つけました。彼が何を言ったかは覚えてはいませんが、彼が私を抱きかかえて、そっとベッドに寝かせてくれたことを覚えています。
皆が私の兄のような、躓いたときに、いつも頼れる人がいて欲しいと思います。残念なことに、心理学者になってから、多くの人が辛いときに頼る人がいないこと気づきました。私の勇敢な仕事仲間は時折、1人で人生に立ち向かい、人生で抱える悩みや悲しみを理解しようと努め、最後には心を痛めてしまうのです。彼らには、抱きかかえ、助けてくれる人がいないのです。親切で愛情深い両親のいる家族や良き友人を持つ人たちでも、人生における幸せや目的を見つけたり、他人とつながっていると感じたりすることに苦労してしまいます。時々、相談者が経験する孤独感は、彼らの感覚を麻痺させ、降りかかる試練をより強力にします。頼れる人が彼らには必要です。
良きサマリア人のたとえの中で、救い主は1人の傷を負った男と2人の人物、ある祭司とあるレビ人について話しました。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。1
このたとえ話を何年も読んできていますが、以前は祭司とレビ人の行動をよく咎めていました。彼らは地位が高いのだから、傷ついた人を慰め、癒し、気にかけることが常識だと考えていました。しかし、最近では、祭司とレビ人が傷ついて苦しんでいる人を通り過ぎたときに、思っていたであろうことに注意を向けるようになりました。祭司とレビ人が思っていたことは、「こっちの道に行こう」と苦しんでいる人を見て見ぬふりする、現代社会の多くの人々が持つ考えと変わらないのではないかと私は考えています。
“私には、できないよ。”
“どうすればいいか分からないんだ。”
“気が引けちゃうな。”
“この人の人となりをしらない”
“夜にここを歩く人が悪い!”
“誰か対処法を知っている人が何とかしてくれるよ”
ゲレット・W・ゴング長老は前回の総大会で、こうおっしゃいました。「私たちは助け合うべきなのに、理由がどうであれ、道の向こう側を通ってしまうことがあまりに多いのです」。2
友人や知人が精神的な問題を抱えていたり精神的に孤立していると感じているときに、私達が見て見ぬふりをしてしまう理由は沢山あります。苦境に陥っている人のすぐそばにいる人は、何をすべきかわからない、力不足だと感じるかと思います。時々私達の知人や愛する人の苦しみに私たちは何もできることはないと思えるかもしれません。私たちは「向こう側を通り過ぎる」ことで罪悪感を紛らわすことができるでしょう。セラピストの研修生だった私は、相談に来る人が経験した苦痛の痛ましさに恐怖を感じたことを覚えています。私は時々、彼らの痛みを和らげるために何か言うことができるのか疑問に思うことがありました。時々私は全く力になれないと感じることもありました。あなた方の中には、 他の人の苦しむ姿を目撃している時に、似た無力感を感じた人がいらっしゃるかもしれません。
ですが、キリストの弟子としての私たちの義務は、苦しんでいる人々と時間を共にすることです。モーサヤ書の中で、アルマはバプテスマの聖約を結ぶことを望む人に、「重荷が軽くなるように、互いに重荷を負いあうことを望み、また、悲しむものとともに悲しみ、慰めの要る物を慰めることを望み」(モーサヤ 18:8-9)と教えています。3
他人の苦しみを軽くする責務は、クリスチャンとしての責任の中で、達成が難しいものの1つであるかもしれません。私たちは、自分自身が力不足であると認識し、それを言い訳に使っている人もいるでしょう。しかし、この義務は難しいように見えるかもしれませんが、不思議なことに最も満足感を得るものの1つになります。助けを施すために立ち止まり、たとえ力不足に感じてもできることを精一杯すれば、天の御父の子の苦しみを和らげるだけでなく、困っている人を助けるという選択を通して、私たちの気持ちに小さな変化をもたらし、憐れみ深い弟子となる能力に大きな自信を持つことができるでしょう。
また、他者の苦しみを軽くするための努力が救い主のようになることの一歩であることに気づき、感謝の念と安らぎを経験するでしょう。ニール・A・マックスウェル長老は、白血病に苦しんでいる中で、次の心温まるお話をしてくださいました。
恵み深い贖いを施すためには、イエスにしかできない事がありました。これらは、万物の復活という贈り物を伴う栄光ある贖いの受益者であるわたしたちが再現することはできません。………
しかし、イエスがお誘いになったように、私たちは確かに「主のように」なる努力をすることができます(3ニーファイ 27:27)。………
他人の苦しみや病気の中で私たちができる限り共有することで、私たち永遠かつ重要な特質である共感する力を育むことができます。私たちはまた、神の御心に従う従順さも身に付けることができます。そうすれば、些細ではあっても、悩ましい瞬間も、 「私の思いではなく、御心が成るようにしてください」 4(ルカ22:42)と言うことができます。
他人に安らぎを与えることができる祝福があるにも関わらず、私たちは力不足で、助けることができないと思うことが多いです。では、私達は、苦痛を和らげよう【と】する時によく感じる恐れや無力感をいかに克服できるでしょうか?私たちの努力が足りないと感じるとき、救い主のように救いの手を差し伸べる勇気をどのように見つけるのでしょうか?次のような方法が役立つかもしれません。
他人の目を気にしない
私達が助けを躊躇【する】最も一般的な理由の1つは、助ける能力がないと他人や自分自身を判断しがちです。最も一般的でやる気を損なう根拠のない考えの1つは、人の目を気にすることです。これは、人に能力が備わっているかどうか正確に評価できるという考えです。
この思いが私たちを邪魔するのです。今の社会では、個人が、組織が、この生まれ持った性質を様々な方法で利用しています。最も顕著な例は広告です。広告は他者と比較する人間の性質を強調し、私達がこの種類の車、チューインガム、または洗剤を購入すれば更により優れた存在になれるとメッセージを発信します。興味深いことに、経済の一部は、他者からの評価と、「さらに優れる」ために商品を購入しようとする人が持つ性質に依存しています。他者からの評価が及ぼすより強力な影響は、近年多くの人の生活の一部になってきています。私のカウンセラーとしての経験から、ソーシャルメディアは広告よりもさらに誤解を招きやすく、傷つける能力があると考えています。あらゆる種類のソーシャルメディアプラットフォームは、他人の生活が自分の生活よりも優雅で、より幸せに満ちていて、ワクワクすると日常的に誤って発信しています。意識、無意識関係なく誤解を招くような、または完全に間違った情報やイメージを基に自分を評価していくと、欲求不満や怒り、憂鬱さにつながります。広告とソーシャルメディアの両方が、自分自身を「他人よりも劣っている」と思わせる傾向を高めています。まとめると、他人からの評価は、私たちが誰であり、天の御父が私達にどのような人になって欲しいかを見失わせてしまいます。
自分は能力不足であるだとか自分が提供するものが不十分かもしれないと思っていませんか?そんなあなたを助ける良いものがあります。BYUで相談者を助けるために、私の同僚であるスティーブン・ラース・ニールセンは、他人の根拠のない評価に苦しむ人のために聖句を探しました。ラースは、偉大な預言者でさえ他者の目を気にしていることを示す聖文を見つけました。私のお気に入りの一つはエテル12章で登場するモロナイです。主はモロナイに彼の父が記した記録をまとめることを命じ、後の世代にとって大きな益となると約束し【ました】が、モロナイは不安でした。
それでわたしは主に言った。主よ、私たちのものを書き記す能力が弱いので、異邦人はこれらのことをあざけるでしょう。………
あなたはまた、わたしたちの言葉を力強くまた大いなるものとし、わたしたちがそれを書き記すときに、わたしたちの弱さを知り、またわたしたちの言葉の用法を誤ってしまいます。ですから異邦人が私たちの言葉をあざけるのではないかと心配です。5
興味深くありませんか?この驚くべき勇気ある神の預言者でも、自身が力不足だと思っていたそうです。あなた達が思うように、彼は自身の物を書く力が弱いと思っていました。モロナイの記録は私を何度も励ましてくれました。彼の書き記す力が実際に「力強く偉大」だということは、 27節に記述されています。
もし人がわたしのもとに来るなら、わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜にするために、人に弱さを与える。私の前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。
私たちは、地球上にいる他の人と同じように弱いのです。しかし、知っていてほしいことは、完全な存在ではなくても、愛し、成長しようと努力するならば天の御父の導きと力によって高められるということです。
忍耐と慈愛を示す
私の息子である、ジョシュとマットは、ほぼ全ての動物、恐ろしそうに見える犬にでさえ、近づき、大人しくさせる驚くべき能力を持っています。それは見応えがあります。ジョシュが14歳の時、彼と私はキャニオンランズ国立公園でキャンプをしていました。エボシガラという不名誉な名前を持つ小さくて可愛らしい鳥がキャンプ場のピニョン松を飛び回り、地面に落ちている種や私たちのご飯だったクランブルを取りに来ました。
ジョシュは、「お父さん、あそこの鳥を一羽捕まえて、手の上の餌を食べてもらうね」と言いました。
鳥が警戒深いことを知っていたので、「頑張ってね」と彼に軽く返事をして、わたしはキャンプチェアに座って読書しました。
約1時間半後ジョシュは静かに私の名前を呼びました。「お父さん、お父さん!
私が本から目を移してみると、手の上に三匹のエボガラシがいて、パンのかけらを食べていました。私は、びっくり仰天しました!ジョシュは間違いなく最も活発な子供であり、これまで注意欠陥障害と多動症に苦労してきました。それにもかかわらず、彼の驚くべき忍耐と優しさで、小鳥が彼の手に集まってきました。私には、到底できない事です。
同じキャンプ場で数年後、マットはポール・マッカートニーの「Blackbird」をギターで演奏していました。 一羽のエボシガラが彼の隣の木に止まり、彼が歌を歌うたびに鳴き始めました。彼は歌を2〜3回歌い、その度にその鳥が戻ってきて、鳴き始めました。 それも、わたしにはできないでしょう。
息子たちのこの特別な才能はどこから来ているのでしょうか?彼らを見てきて、私は、彼らが忍耐と愛情を動物のお友達に向けているからだという結論に至りました。 彼らは、人の友達にも同様に接しているのが私にはわかります。息子のジョシュは社会福祉の専門家として自閉症スペクトラム障害の人たちと働いています。マットはカスタマーサービスで働いています。彼らの、難しい場面でも落ち着いている能力には定評があります。彼らは使徒ペテロの勧告の良い模範です。
「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって祝福をもって報いなさい、あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」7
「悪をもって悪に報いず」という忍耐と敬意を示す能力を、アンは夫を亡くした女性が拒絶したときに優しさをもって示しました。アンは、彼女のワードにいる女性ベティに教えを説きに訪問することになりましたが、ベティは夫を亡くしたばかりでした。ベティは悲しみと孤独で平安とは程遠い状態で、同じワードの会員が彼女に寄り添うことを試みても、彼女はそれを拒否しました。
ベティが後にこう説明しています、「私は怒っていて、イライラしていて、他人と一緒にいることに耐えられなかった。同時に、私を変えてくれる人を求めていました。しかし、それが何なのか、どうしても分かりませんでした。」
アンが哀悼の意を表すために花を持ってベティのところに行ったとき、ベティはアンの目の前でドアを閉め、大きな声で、誰も訪ねてきてほしくないし、近所の人から何も必要ではないし、欲しくもないと言いました。アンはどうしたらいいのか考えながら、ゆっくりと歩いて帰宅し、家で数分間祈り、ベティの抱える孤独と悲しみについて考えた後、アンはベティの家に戻ることにしました。
ノックした後、ベティがドアを開けてアンは驚きました。アンはベティを強く抱きしめて、「あなたを傷つけてごめんなさい」と謝りました。
ベティはアンを押しのけず、アンの腕に身を預け、泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返し謝っていました。
私の義父は、人は冷たくなった時こそ、最も愛を必要とすると言っていました。人の怒りや動揺を乗り越える力は、表に出ている感情が、必ずしも今経験している感情ではないと認識するときに得ることができます。アンがベティの怒りの内にある感情を見抜くことができたのはなぜでしょうか?それは、忍耐と愛情だと私は考えます。ベティが抱える悲しみを怒りで蓋をしていることを忍耐して知り、愛情をもってベティの抱える寂しさと悲しさを見つめようとしたのです。ベティはあまり愛情を必要としているようには見えませんでしたが、アンは、彼女が愛と思いやりを必要としていることを彼女は認識していました。
思いやる心と共感する能力を育む
使徒ペテロの助言を覚えていますか?「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」
2年前、カウンセリングと心理サービス(CAPS)のセラピストは、 コンパッション・フォーカスセラピー(CFT)の創設者であるポール・ギルバート博士から2日間のトレーニングを受ける機会に恵まれました。 ギルバート医師の治療法は、私の治療法に決定的な影響を与えました。 ギルバート博士は、思いやりは自分や他者の苦しみを軽減するための不可欠な要素であると考えています。彼は「思いやりの心は、人を変える力がある。」と信じています。 ギルバート博士は、自身への思いやりを育むことと、人生の中で特に困難な課題を知り、理解することの重要性を強調しています。私は、相談者達が直面する困難に対して、思いやりを示すことを学ぶ度、彼らが他の人に思いやりを示す備えがよりできるようになることをお伝えします。
自分への思いやりを研究しているもう一人の心理学者クリスティン・ネフ博士は、「思いやりとは、定義上、思いやる相手が存在するのである。思いやりとは文字通り「ともに苦しむ」ことを意味し、お互いに苦しい経験を分かち合うことを意味する」と述べています。10 このように、思いやりとは、個人の苦い経験を認識し、悲しみを感じる以上のものなのです。思いやりは、苦労している個人と「苦しむを共有する」ことができる事を意味します。 ギルバート博士と同様に、ネフ博士も 自己への思いやりを身につけることの意義を強調しています。自身への思いやりは、自身への同情と共感を発展させる意欲と能力を必要とします。
思いやりの同義語は 共感です。セラピストになったばかりの頃は、私は相談者の言葉や感情を深く考えることに多くの時間を費やし、教授が「正確な共感」と呼ぶものを確立できるようにとしました。相談者が「それが言いたかったんだ!」と言ってくれると、私は今でも非常に心が満ち足ります。
思いやりと共感はかなりの努力を要します。自分自身や他人を理解するのは難しいです。自分や他人の苦しみを体験することはさらに難しいです。おそらく、この難しさが、私たちを道の向こう側に向かわせる原因の1つであり、助けたいが、自分や他の人が経験している苦しみに向き合う能力を見つけづらくしています。けれども、苦しみと向き合い、理解する意欲は、私達ができる最高の癒しの1つになる力があります。
私の娘のブリタニーは、アルパイン教育学区にある特別支援学校、ダン・ピーターソン・スクールで数年間補助員として重い障害を持つ子供たちのために働いていました。ブリタニーにとってこの仕事はぴったりでした。彼女は重度の身体障害や精神障害を持つ子供たちのために、特に聴覚障害と視覚障害を持つ子供のために精力的に仕事をしました。ダン・ピーターソン学校の管理者、教員、補助員、保護者また生徒はブリタニーが大好きでした。彼女が持って生まれた愉快さと生徒への深い思いやりは、彼女を学校にとってかけがえのない財産にしました。ブリタニーは世話をしている子供たちが置かれている状況によく涙を流しました。彼女は、まさに子供達の経験する「苦しみ」を共感するために尽力していました。
ブリタニーはいつも私に学校に来て、生徒たちに会って欲しがっていました。彼女は彼らをとても誇らしく思っていて、私に彼らと交流して欲しかったのです。ブリタニーの生徒たちと会う機会を得た時、ブリタニーは彼らを重度の障害を持つ人としてではなく、友人として深い愛と尊敬の眼差しで見ていたことに、私は感銘を受けました。ある時、ブリタニーのクラスの目が不自由な少年が、彼女の髪をつかんで引っ張りました、それも強くです。ブリタニーには、彼の掴む力を緩めることができず、他の補助員がようやく彼の手を緩めることが出来ました。その時、彼の手にはかなりの量の彼女の髪がありました。後で聞いてみると、ブリトニーはこの少年に怒りも苛立ちも感じていませんでした。「彼にとって仕方のないことなんだよ、お父さん。彼の世界がどんなものか想像してみて」。
本当に、私は彼の世界がどのようなものかを想像したことすらありませんでした。ブリタニーの学校での素晴らしい働きの秘訣は、それだと思います。彼女は自分の生徒の世界がどのようなものであるか想像し、彼らの世界と向き合い、彼女は本物のキリストのような愛でこれらの学生を愛したのです。
私たちは、一人ではありません。
モルモン書の最も象徴的な場面のいくつかは、リーハイとニーファイの鉄の棒の示現です。モルモン書を心から研究するとき、彼らが経験した示現とその示現がもつ個人の生活への応用力は目を見張るものがあります。「この夢のどこに私はいるのだろうか?」と自分に問いかけます。真っ暗な荒れ野の中か、命の木へ続く道にいるか、建物の中か、命の木の近くにいるのか? ほとんどの場合、私は命の木へ続く道にいて、鉄の棒を握りしめながら、暗黒の霧の中をゆっくりと前へ進んでいる姿を浮かべます。
多くの人が私と同じ姿を思い浮かべているでしょう。人生の試練が渦巻いている中、前へ進み、鉄の棒を探し、放さまいとしている姿をです。示現の中では具体的に明らかにされてはいませんが、私の心の中では、互いに助け、掴み合い、果物に例えられる神の愛に向かう道を探す人達の姿が思い浮かびます。
私の親愛なる友人であるゲリー・ウィーバー博士は、神の愛に向かって進む時に、鉄の棒を見つけ、掴むことができるように多くの人を助けた人です。ゲリーが18歳のとき、彼は人生を変えた6週間のBYUサバイバル旅行に参加しました。この旅で彼は次のモットーを心に留めました。「もしわたしが人を助けるなら、主はわたしが必要とする物全てを与えてくださる。」このモットーが人に仕える彼の人生の指標でした。長年にわたり、ゲリーはユタ州南部のボルダーやエスカランテ地域で、1週間のサバイバル旅行を160回以上実施しました。これらの旅行を通して、彼は4000人以上の人々が自身について学び、主との関係を強化する助けを行いました。ゲリーがサバイバル旅行に連れていった人々のほとんどは、例えのように傷つき、道の脇に横たわっていた人々である「見向きもされない人」11と見なされていました。
私は、ニーボ学区の30人の高校生が参加するサバイバル旅行に同行する機会に与りました。若い女性や男性たちが癒しを見つけられるように助けるゲリーの姿に心を打たれ、私も安らぎを感じ、鉄の棒をさらに強く握ることができました。私は、砂漠や沼地といった難しいルートでたどるべき道を探すグループの一員でした。私たちがハイキングをしている間、ゲリーは私たちが力を合わせて問題を乗り越え、互いを助け、目標に向かって進めるように励ましてくれました。疲れに疲れた夜には、ゲリーが寝付けるように演奏するハーモニカを聞きながら、その日にあった出来事を思い返していました。
20年以上前、ニーボ地区の政策が変わり、ゲリーはもうサバイバルグループを率いることができなくなりました。ゲリーが指導してきた他のセラピストは、人生の悩みを抱えた若者のグループを率い続けていいましたが、私はその経験を愛する人たちと共有したいと強く願っていました。私はゲリーに戻ってきて、私がグループを率いるのを手伝ってくれるようにお願いしました。彼は心筋梗塞を経験したにも関わらず、快く手伝ってくれました。24年経った今、私は200人以上の家族、友人、同僚、ワードの若者たち、そして3人の子供たちを一週間におよぶ砂漠での冒険へ連れていくことができました。
おそらく、これらのサバイバルグループを率いた上で最も特筆すべき点は、他者からの評価を気にする場面が全くなかったことです。その代わりに、忍耐と愛情、そして深い思いやりと共感を、グループのメンバーが道を進むにつれて、互いに示し合う場面があったことです。サバイバルグループのメンバー達のキリストのような特質に、私はよく気づきます。具体的にはお話しませんが、グループの中で「私たちは、一人ではない」雰囲気があります。私は、グループのメンバーがお互いに深く思いやりのある愛を示す場面に巡り合う度に、謙虚な気持ちになります。お互いの重荷を背負い、互いに慰め合い、一人ではないというメッセージをメンバーが送り合う時、私の心はへりくだります。彼らは互いに神の愛を感じられるように助けあっています。それがキリスト教の奉仕の本質なのです。
最後に
アダムとエバの堕落は文字通り罪深く、そのせいで彼らは主の前から追い出されました。しかし、 堕落という言葉は、アダムとエバの堕落の結果を受け継ぐこと以上に、私たち自身の人生に極めて深い影響を及ぼしています。私が何年も前の夜に、2段ベッドから床に落ち、助けが来ないか願っていように、皆が助けを求めています。あれから何年も経ちましたが、兄が私を抱きかかえ、慰め、ベッドに戻してくれたことを今も感謝しています。私は神の子供の多くが二段ベッドの上の段よりはるかに高い所から、落ちていることを知っています。しかし、贖罪の根本にあって一人一人に当てはまる教義とは、主と私たちの兄であるイエスキリストは、私たちを抱きかかえ、泣きやまし、堕落した世界で受けた傷を癒してくれることです。
今日、私がお伝えしたいことはこれです。私たちにはイエスキリストの弟子として、キリストの手となり贖罪を可能にする手助けをする義務があるということです。他の人を抱きかかえ、涙を拭き、傷を癒すためにいるのです。賛美歌の言葉にもある「私は兄弟の守り人であり、癒しの力について学ぶ」12から、神のみ手になり、人を助けることは、クリスチャンの義務であるだけでなく、聡明で愛する天のお父様から頂いた最も偉大な祝福の一つであると心から信じています。イエス・キリストのみ名によって、アーメン。
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1.ルカによる福音書10:31,-32-32
2.ゲレット・W・ゴング「宿屋に居場所を」”リアホナ”2021年5月号、
3.(モーサヤ書18:8)
4.ニール・A・マックスウェル'”キリストの贖いの血の効力を及ぼす” “聖徒の道”1997年11月号、
5.エテル12:23、 25。
6.エテル12:27
7.1ペテロ3:8
8.1ペテロ1:8;強調付加
9.Paul A. GilbertとChoden、 マインドフル・コンパッション: 思いやりの科学がいかに あなたの感情を理解し、現在生き、 他と深くつながるのを助けることができるか (オークランド、カリフォルニア: 新刊、2014年), 300
10.Kristin Neff、“Embracing Our Common Humanity with Self-Compassion,”Self-Compassion, self-compassion.org/embracing-our-common-humanity-with-self-compassion(英語)
11.マタイ25:40
12.われ主を愛して 賛美歌134番

BYUスチューデントデベロップメントサービスエグゼキュティブディレクターである、スティーブン A. スミスは2021年6月29日にこのディボーショナルを行いました。